しょうかくじ
千葉県香取郡多古町島2320
多古町島にある日蓮宗不受不施派の寺院。 弘安年間(1278年~1288年) 常在院日朝上人(藻原の城主齊藤遠江守兼綱)の開基で創建。 本来の寺号は本覚山妙光寺で、旧本山は正中山法華経寺(市川市中..
多古町島にある日蓮宗不受不施派の寺院。 弘安年間(1278年~1288年) 常在院日朝上人(藻原の城主齊藤遠江守兼綱)の開基で創建。 本来の寺号は本覚山妙光寺で、旧本山は正中山法華経寺(市川市中山)。 のちに、法華宗において不受不施義(法華宗信者以外からの布施を受けず、また施しもしない)と言う主義が生まれた。 妙光寺及び周辺の法華宗寺院でも不受不施の気運が高まっていった。 豊臣秀吉主催の千僧供養会不参加をきっかけに法華宗(日蓮宗)から不受不施派が分裂。 江戸時代に入ると、徳川家康により不受不施派は禁教とされ、妙光寺の日泰上人と日如上人両住職は伊豆諸島に流罪となった。 住職不在でも妙光寺檀徒の島村住民や多古周辺の不受不施派信者は幕府の目から隠れるようにして信仰を存続したという。 明治9年に宗派再興を許可されると、不受不施派はもとの本山である法華経寺から本覚山妙光寺を借り入れ、龍華説教所と号した。 明治39年(1906年) 日耀上人が赴任。 昭和22年(1947年) 寺号を成等山正覚寺と改め、本堂を改修。新たに宝蔵庫を建立した。 多古と南中の妙光寺も同じ日朝上人による開基で、あわせて三妙光寺と呼ばれていた。(不受不施派の正覚寺となった現在では、妙光寺は多古と南中の二ヶ寺のみ) 現在 正覚寺に住職はなく、地元の代表となる人物が岡山県岡山市の龍華山妙覚寺に 行き、「入道」として修行するのだという。
多古町島にある日蓮宗不受不施派の寺院。 もとは三妙光寺の一つ、島村の本覚山妙光寺。 住職は居らず、地域の代表者が「入道」として岡山県の龍華山妙覚寺に通い修行しているのだという。
成等山
日蓮宗
不受不施派
弘安年間 (1278年~1288年)
常在院日朝上人(齊藤遠江守兼綱)
明治9年 (1876年)
日耀上人
成等山正覚寺
無し。裏手にある三十番神(祠)付近に2台ほどの駐車スペースあり。