みとじょうし
茨城県水戸市三の丸1-6-29
水戸城は、北を那珂川、南を千波湖に挟まれた、日本最大級の土造りの城です。大規模な土塁とともに、城の西側の台地には五重の堀、東の低地には三重の堀をめぐらし、堅固な防衛線を築いていました。なお石垣構築の..
水戸城は、北を那珂川、南を千波湖に挟まれた、日本最大級の土造りの城です。大規模な土塁とともに、城の西側の台地には五重の堀、東の低地には三重の堀をめぐらし、堅固な防衛線を築いていました。なお石垣構築の計画は何度かあったようですが、諸事情により築かれることはありませんでした。 元は平安時代末から鎌倉時代初期に馬場氏の手により建てられた館に由来し、後に江戸氏、そして佐竹氏の手を経て、慶長14年(1609年)、徳川頼房公が水戸に封じられるとともに水戸徳川家の居城となります。頼房公は三の丸や外堀の整備拡張を行い、二の丸に御殿を造営、併せて三階物見と呼ばれる櫓を建設しました。しかしこの三階物見は明和元年(1764年)の火災で焼失、後に再建された際に屋根を銅瓦葺とし、天守らしく鯱を上げ三階櫓(御三階櫓)と呼びました。 三階櫓は外観三層・内部五階の大型の櫓で、石垣がない代わりに一層目の下部を海鼠壁で覆い、石垣の上に建っているかのような姿を見せていました。昭和20年(1945年)に戦災で焼失するまで水戸市のシンボルとして親しまれました。 現在でも土塁や堀、三の丸に作られた藩校弘道館や薬医門などが残り、かつての姿を偲ぶことができます。また、「大日本史」編纂事業が行われていた旧彰考館跡には、その記念碑とともに「二の丸展示館」が設置され、城跡からの出土品や水戸城に関する資料などを公開しています。 現在は水戸城跡の整備計画が進んでおり、「水戸学の道」沿いの白壁塀や、南北の登城口「杉山門」、「柵町坂下門」のモニュメントなどが整備されました。また、水戸城の正面入口だった二の丸角櫓の復元、土塀の整備工事も行われています。大手門は、令和2年2月4日から通行できるようになりました。(徒歩のみ。車両の通行禁止。自転車は降りて、手押しで通行)
JR常磐線 水戸駅から徒歩約8分
弘道館前に無料駐車場あり