当神社は創立時代は未詳であるが人皇六十代醍醐天皇勅撰を蒙り延喜五年八月式内社に列せられ延喜式内の稱号をたまわり下野国十一座の一社として神名帳に登載されている。
社伝によれば天慶二年(九九三)平将門の乱の 際村中ことごとく兵火に焼かれ当社も焼失したが間もなく再建された。
而し室町時代再度の火災により社運が衰い 祭祀を廃する事数百年であったと言ふ。
天正十九年(一五九一)徳川家康入府の際再建 され元和八年(一六二二)当地が古河領となり領主永井直勝は社地五反歩田四反七畝を寄進し永井氏佐倉に移封された後も武の神 として近郷近在より崇敬されたといふ。
明治三年栃木県管轄となり近郷の総鎮守とされて明治五年十一月郷社に列格した。
現在の鎮座地は明治十二年四月移転されたもので旧社地跡は北方約四百m離れた台地であった旧社地跡の記念碑も土地改良によって北方約百mの畑地に移されてゐる。
下野国誌によれば「オオサキ」と稱しているが 当社近郷では「オオマエ」とよんでゐ。
尚当社境内と近隣に九世紀と考えられる「タタタラ」跡が三基確認され鎔工傍らに住みたる多くの□も見られ字天国府字国造字城坊などの地名もあり古代よりの社歴を物語る(境内沿革史石碑より)※□:一部返還不可文字あり