古くは、河内大明神と称していた。この社名は当地方の往古よりの郷名の河内にちなんで名附けられており、其の郷名は当地方に数十の河川が流れていることによると考えられる。当社創建の年月は不詳であるが、二鹿神社の縁起に起因して、平安時代の承平年間(九三一~)に創祀の古社と伝える。其の後江戸時代の慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いのあと、出雲国から入封した藩主吉川広家より三代目の藩主吉川広嘉は、鹿狩りの時幣帛を供えている。明治三十九年(一九〇六)、県内神社の統合令により、神社の合祀が進められることになった。二鹿神社は一度は許可されたが、やがて取り消された。このため、同四十二年(一九〇九)に二鹿字宮ヶ谷の河内神社へ合祀となる。須賀神社(同寺田)・船山神社(相ノ谷船ヶ浴)・須賀神社(同寺垣内)・河内神社(同宮ヶ浴)の四社は合祀することになり移転願いを提出した。同年末に統合による維持方法と移転が許可されたので、二鹿神社の社殿や境内の残っている現在地(二鹿竹之屋敷)に移転し、河内神社と称することになった。二鹿神社の祭神の梅津中将命は、祭神として不穏当につき削除され、神社の存置も認められなかったが、漸く第二次世界大戦後に河内神社の祭神の一柱として増祀が許された。社領の石高は、藩政時代初期に五石(元和頃・一六一五~)、後年一石(寛永・一六二四~)になる。社有田地は、第二次世界大戦後まで二反六畝余あった。社格は無格社。