はっかじ
静岡県浜松市中区上島7-14-50
桓武天皇の御代の延暦13年(794)征夷大将軍坂上田村麻呂(758~811)が東征の折り、遠江國の岩田の海に赤蛇が住み、海を渡る人に危害を加えた。将軍は住民達の苦しみを救おうと、遠江國小笠郡堀之内(..
桓武天皇の御代の延暦13年(794)征夷大将軍坂上田村麻呂(758~811)が東征の折り、遠江國の岩田の海に赤蛇が住み、海を渡る人に危害を加えた。将軍は住民達の苦しみを救おうと、遠江國小笠郡堀之内(現菊川市)の潮海寺から薬師如来を勧請し、薬師堂を建立し祈願した。仏力により赤蛇は将軍の子(俊光)を形見として田村麻呂将軍に預け、海の航行往来の安全を約束して二俣鹿島の「椎ヶ脇」に沈んだと伝えられている。寺の境内には、寺伝によれば、白華寺は真言宗潮海寺末、赤池山光福院といい、東円院・三松院等末寺六ヶ寺があったが、末寺は廃寺となり、光福院も無住に等しい荒れようであった。しかし、薬師堂のみは里人の信仰で存続。江戸時代からは眼病祈願成就の霊験ありと知られ多くの祈願者で賑わった。また、遠江四十九薬師第二十五番札所として、薬師霊場巡りの巡拝も盛んになり、毎年2月8日の例祭には近隣の念仏講中による和讃も大正末期まで行われた。明治29年(1896)当時光福院兼住上島村延命寺十六世杉蓬三和尚から積志村半田、実相寺住職館燈外和尚に引き継がれ、細江町から白華寺を移して黄檗宗に改宗した。昭和に入り、京都から松居弘倫師(後に盛岡市大慈寺住職)を住職に迎え、現在に至っている。
黄檗宗
延暦13年(794年)
薬師如来
坂上田村麻呂
赤池山 白華寺
遠江四十九薬師第二十五番札所