たかくらじんじゃ
三重県伊賀市西高倉1050-2
御祭神 高倉下命より七代目の子孫倭得玉彦が、伊賀の地に一族とともに移住したのが始まりです。高倉下命は、熊野の方て倭の国の黎明明に倉守集団の要をなした方でありますが、越後が終焉の地となりました。越後ノ..
御祭神 高倉下命より七代目の子孫倭得玉彦が、伊賀の地に一族とともに移住したのが始まりです。高倉下命は、熊野の方て倭の国の黎明明に倉守集団の要をなした方でありますが、越後が終焉の地となりました。越後ノ国で六代の子孫か自ら勤めておりましたが、七代目が伊賀に定住したと伝えています。爾来近村に熊野の一族も定住し、桓武天皇の皇女の移住もあって新居郷が成立しました。新居郷に春日信仰が残りましたのもそのためであります。 今日、高倉東西地区五百戸の氏神として、各地区で営祝が営まれておりますが、時代と共にその形が崩れつつあります。 当社の境内は古今無双と言われ、上段に三社御殿、次に磐座拝殿、次に神事場、一番下が広場で、今は駐車場になっております三社の御殿は、いずれも天正九年(一五八一)の「伊賀の乱」より先の天正二年(一五七四)に建立され、その彩色は近在に比類無く、ある方は貴族の図柄と称しました。いずれも国の重要文化財であります。なお、境内で宮句会を開いた宮城きよなみ師、川崎克師他同門の句碑があり、倉庫関係者の石碑もあります。(jinja-netより)