こううんじ
長崎県長崎市出来大工町4
光雲寺は行基が、英彦山山麓に一寺を創建して、一乗院末坊3000の一つとしたと伝わる。 天正2年(1574)大村純忠おおむらすみただがキリシタン布教上の障害を除くため、長崎及びその付近に於いては..
光雲寺は行基が、英彦山山麓に一寺を創建して、一乗院末坊3000の一つとしたと伝わる。 天正2年(1574)大村純忠おおむらすみただがキリシタン布教上の障害を除くため、長崎及びその付近に於いては、神仏両道は厳禁し住民はキリスト教に転宗を強いられ、これに従わざるものは領外に退去を命ぜられ、神社仏閣は大村の兵に護衛されたキリスト教徒により皆焼き払われ、光雲寺もこのキリスト教の災に罹り堂宇は破毀されて一物も残るものはなかった。 正保3年(1646)松雲宗融が晧台寺の一庭融頓と共に再興し、現在の地に移した。 本尊の釈迦如来坐像は中国明時代(1368-1644)中期の渡来仏。寛文3年(1663)、火事で傷んだため京都へ修繕に出した際、後水尾上皇から「日本一素晴らしい仏像である」というお言葉をいただいたという逸話が残されている。
月桂山
曹洞宗
晧臺寺の末寺
釈迦如来坐像
長崎四国八十八ヶ所霊場第17番