ほりきりてんそじんじゃ
東京都葛飾区堀切3-11-2
「葛西志」堀切村の条に「神明社 除地303坪、村の西北により有。永禄3年(1560)の勧請にして、極楽寺持なり」とある。堀切の地名は古く応永5年(1398)の「葛西御厨注文」に「堀切 14町1段半」..
「葛西志」堀切村の条に「神明社 除地303坪、村の西北により有。永禄3年(1560)の勧請にして、極楽寺持なり」とある。堀切の地名は古く応永5年(1398)の「葛西御厨注文」に「堀切 14町1段半」と載せ、鎌倉時代中期以降、伊勢皇大神宮の神領地であった関係から、この社も奉祀されたものと推定される。当社の本殿は弘化2年(1845)に新築され、明治10年・同23年・同43年の修築を経て、昭和41年8月、現在の社殿が造営され、拝殿は明治2年・同43年に修覆されたものである。合祀の誉田別命すなわち八幡宮は「新編武蔵風土記稿」では神明社とは別の神社とし、しかも神明社と同じく永禄3年の鎮座で、別当も同じ極楽寺としている。しかし一説には、武蔵石浜城主千葉介実胤の家臣窪寺蔵人頭胤夫が、武運長久祈願のために宝徳元年(1449)城内に勧請し、康正2年(1456)6月、胤夫父子は、戦死して八幡宮の傍らに葬られ、その墳墓を余に窪寺塚と呼んだ。八幡宮の社殿は天正年間(1573-97)大洪水によって流失し、現在の江東区深川富ヶ丘八幡宮(富岡八幡宮)の地にとどまったともいうが、その真偽は不明である。(葛飾区教育委員会 葛飾区神社調査報告より)
永萬元年(1165年)、伊勢皇大神宮の神領地として寄進された葛西御厨の堀切村鎮守として伊勢皇大神宮の御分霊を勧請して創建されました
天照大神、誉田別命、菅原大神
永萬元年(1165年)
京成緯線「堀切菖蒲園」駅より徒歩1分
無し