あさくさふじせんげんじんじゃ
東京都台東区浅草5-3-2
創建 富士信仰が最も盛んであった江戸時代、富士山参拝は江戸庶民にとって生涯の夢であった。しかし当時は交通事情も悪く、そうした中、富士山崇敬を目的とした「富士講」が結成され、全国各地に浅間神社の勧..
創建 富士信仰が最も盛んであった江戸時代、富士山参拝は江戸庶民にとって生涯の夢であった。しかし当時は交通事情も悪く、そうした中、富士山崇敬を目的とした「富士講」が結成され、全国各地に浅間神社の勧請が行われた。富士山山開きの6月1日(現在は7月1日)には、富士参りの出来ない人々が、各地元の浅間神社に参詣した。そうした富士山遙拝所として当社が創建された。 当初は、現蔵前の三好町に勧請・分祀(御神霊を頂くこと)され、その後幕府の命により昔は富士に似た森厳なる小丘であった現在地(浅草五丁目)に移されたとされている。 詳しい創建日は不明だが、当社本殿より発見された棟札によると元禄年間(1688~1703)の創建と推察されるが、元禄年間以前の「江戸絵図」にはその鳥居が描かれており、この辺をどう解釈するかが今後の課題である。
沿革 当社が再建されたとする江戸時代は神仏習合の時代であり、仏が神の姿をかりて世俗に現れるという権現思想の中、当時神社自体は富士権現として浅草寺子院 の修善寺が管理していた。その後明治維新の神仏分離の政策により修善寺の管轄を離れ、明治6年より浅草神社の兼務社として現在に至る。
社殿 明治11年に建てられた社殿は、先の東京大空襲で土蔵造りの本殿を残し全焼。その本殿の観音扉の内側には明治維新前後の作と思われる下り龍の漆喰彫刻が残っている。現在の社殿は平成10年に神社奉賛会その他篤信の方々の努力により再建されたもので、さらに平成14年4月には、石造りの玉垣が奉納され、完成した。
木花咲耶比売命
木造木花咲耶比売命坐像
不詳
浅草のお富士さん