縁起には「そもそも当寺の源は、極昔大祖伝導師この寺を領す御大将出羽国鬼甲城主乙浜入道大琳政国殿と号す。御本領37石余り、御内高28石余り、殊二御威容顕耀・・・中略・・・。」とあります。
また縁起には代々の住職さんの寂年(亡くなった年)として、
一.伝導和尚 天徳年中(957~960年)頃寂すという。年月不明。天台宗也。外堀山台窟寺。
一、覚心和尚 健保元(1213)年月不明、然し正月。
一、法学和尚 文禄2(1593)年巳8月23日寂。
一、学真坊 慶長19(1615)年甲寅7月18日寂。正祖改宗。真宗。(口伝には学真坊は僧兵となり、石山合戦(1570~1580)に参戦し織田信長の軍勢と戦いました。その後京都東本願寺で天台宗より真宗に改宗したといわれています。
江戸時代に書かれたこの縁起からは、法学和尚の文祿年間まで西浄寺の宗派は天台宗であったことがわかります。住職や古老の話によると、現在の寺は富並にあるが、開基伝導和尚は当時兄の和尚が葉山におった関係で、京都と葉山を行き来しているうちに、鬼甲城主の意向で城の外堀に寺を建立したのであるといわれています。現在も富並鬼甲城趾南外堀には寺屋敷や経塚の名を残しています。
縁起とともに御詠歌も残っています。
紀州熊野へ参詣して、奉楽又歌として詠み侍りける歌。
三熊野の 神の恵の 露深く 故けのたもとに かかる嬉しさ
この歌は、湯野沢熊野神社の御詠歌と同じです。