社伝によれば、垂仁天皇の御代の創始と伝えている。 すなわち『倭姫命世紀』の倭姫命が天照大神を奉じて美濃の伊久良河宮から尾張中島宮にお移りになり、 さらに御船に乗られて桑名郡野代宮にお着きになり、四年間この地で宮居を造られ、國造大若子命が参じ相共にお仕へしたと云ふ。 倭姫命は、その後伊勢に追孝され、その野代官の行宮の跡に本社を則祀して野志服神社と唱へたものである。 現社地の東方に平安時代からの下野代遺跡があり、県くから開けていたことが判る。 平安時代には『延喜式神名帳』記載の桑名郡一四座の一座として野志里神社の名が 載せられている。 当社を式内野志里神社にあてることについては、古くから考証されており、 『勢陽雑記』『御遷幸図説』『神名帳傍註』以下の諸書もすべて下野代村を郷名とし現社地を鎮座地に求めている。 最も新しい『式内社調査報告』においても、同様な見解 である。文徳天皇仁寿元年(五八一)以降、土御門天皇建仁元年(一二〇一)、 亀山天皇弘長元年(一二六一)各々神階を進められ、従五位上に叙せられた。近世には春日明神と俗称せられていたことが地誌類等によって知られる。 近郊の氏神として篤く崇敬されていたものと思われる。
なお現在、神職は不在で、多度大社が兼務している。