にょいりんじ(うしじまたいしどう)
東京都墨田区吾妻橋1-22-14
如意輪寺は、通称の牛島太子堂の別当にあたります。嘉祥2年(849)、比叡山四祖慈覚大師円仁(794~864)が入唐求法から帰って、故郷の下野国(栃木)大慈寺への道すがら、聖徳太子自作の太子像を安置し..
如意輪寺は、通称の牛島太子堂の別当にあたります。嘉祥2年(849)、比叡山四祖慈覚大師円仁(794~864)が入唐求法から帰って、故郷の下野国(栃木)大慈寺への道すがら、聖徳太子自作の太子像を安置したことに創まると伝えます。 牛島の地の太子堂として通称が生まれましたが、伝わった太子像は像高2尺4寸5分(74.24㎝)、長屋門の中、石鳥居の正面宝形造の太子堂に祀られてあり、堂前には拝殿跡らしい礎石がありました。その右側に別当如意輪寺の建物がありました。 『葛西志』には、「往古の今の小梅村水戸家御蔵屋敷(今の隅田公園)の辺にこれあり。村開闢よりの堂なりといへば、古くよりのものなるは論なし。当所へ移りしその年暦は伝えざれども、寛文二年(1662)梓行の江戸名所記に中の郷太子堂とのせたれば、是よりさき移りしはしらる」とあって、現在地への移転の時期がわかります。 『葛西志』では、中の郷元町に、東向きに北から、天台宗一道寺(長勝寺)、真言宗の愛染堂、そして太子堂と並んでいたとし、太子堂の西隣には、仏立講(本門仏立宗)の清雄寺が並んでいました。 大正12年(1923)の関東大震災で灰尽に帰し、区画整理もあって現在地に落ちつきました。その際、太子像と如意輪観音像が失われ、現在は如意輪寺本堂に、縁を得て勧請された美しい如意輪観音と、中興の住職が刻んだ孝養太子像が合祀されています。 明治維新までは上野寛永寺末、その後、成就寺(江戸川区逆井)末となりました。 『江戸名所記』には、文禄年中(1592-5)太子堂近くに光りが発し、弥陀三尊の種子を記した板碑が出土し、これを供養するとその怪異が消えたと出ています。残念ながらこの板碑は現存していません。 現在は、リバーピア吾妻橋と名のる高層ビル群の東側に位置して、昭和32年(1957)建立の本堂と、その南側に平成10年(1998)完成の寺務客殿棟という配置からなっています。また墓地入口側に、納骨堂をかねた阿弥陀堂一宇があります。
如意輪寺は、通称の牛島太子堂の別当にあたります。嘉祥2年(849)、比叡山四祖慈覚大師円仁(794~864)が入唐求法から帰って、故郷の下野国(栃木)大慈寺への道すがら、聖徳太子自作の太子像を安置したことに創まると伝えます。
寶珠山
理性院
天台宗
如意輪観音
墨田区登録有形民俗文化財 六面塔
地下鉄銀座線/浅草駅 東武鉄道/浅草駅 徒歩10分 都営地下鉄浅草線/本所吾妻橋駅 バス/リバーピア吾妻橋 徒歩5分