寛政元年(1460年)、武儀郡関村(現・関市)の梅龍寺3世・桃雲宗源によって創建された。こうして近隣地域における妙心寺派の法源寺(布教の中心となる中核寺院)の一つとなった。
二度の出火によって堂は焼失したが、堂内に屋敷を構えた岡田将監によって再興された。このため寺には岡田氏初代・善同と3代・善次の位牌がある。
寛永8年(1631年)、岡田氏は領知替によって西濃の揖斐へ転ずることとなり、その際に門と書院を寺に移した。 門はのちに大風で倒れ、その廃材は長く本堂の下に入れてあったが朽ち果てたと言う。書院は庫裡の裏に現存していて茶室もある。
山門の脇には三十三観音石像があり金毘羅社や寺の鎮守が前にある。