天文年間、鷲見氏の庇護のもとで希曇楚見和尚によって創建された。楚見は大道真源禅師(東陽英朝)を招いて開山とした。
楚見は天文5年に没した。古老による伝承では奥山から紫雲がたなびいてきたのでその方角へ進むと、座禅をしたまま没した楚見がいたという。また捜索に協力した東光寺の東英和尚によると、発見まで随分日がたったという。
法系は1代で絶えてしまったが、桂岸・華岳・湘山・應機・大圓・月峰・義山・考山と住持が続いた。
明暦年間または寛政年間、江戸正燈寺から来た大空和尚によって再興された。こののちは闌室・弘林・詣堂・顕州・定禅・禅昇と続いた。弘林和尚は羽島出身で、彫刻が堪能だったと伝わる。
貞享2年(1685年)、法系には無く詳細は不明だが、安山和尚によって再興されたという。
明治24年、濃尾地震によって堂宇が全壊した。2年後に詣堂和尚によって再建された。