受鬘命は天孫瓊瓊杵尊の降臨に随った三十二神のうちの一神であり、塩椎神は伊邪那伎命の御子である。
古くは火燒大明神と称し、養老年中(一説には七二四年)に田布施の総廟として創建されたと伝えられる。貞観十五年四月五日、正六位上に叙せられたことが三代実録に見える。
永禄三年島津日新公の時再興され、勝手大明神の五文字を書き鳥居に掲げられた。元禄九年十一月十五日、これを模写して銅製の華表に掲げたといわれる。多夫施神社と称されるようになった年代や、地名の田布施ではなく多夫施の文字を用いる経緯は定かでない。
当社の社司は、昭和十一年までは二十二代にわたって二宮家がつとめていた。二宮氏の祖先は平貞盛より出て伊東曽我兄弟と同族の関東平氏であり、島津氏入国の際、二十四人の供奉人の一人として従い、この田布施で農耕に従事しながら社家をつとめた。貴重な古文書を多数所蔵していたが、明治のはじめに惜しくも盗難に遭い失った。残されていれば優に国幣社に列せられたといわれる程であった。