たつたほうえいこうしゃ
京都府綾部市佃町宮ノ上
建田(たつた)とは武吉・佃・忠の頭字をとって付けられた村名である。 宝永六年(1709)武吉村源兵衛宅より始まる以下のいわれがある。 関ケ原の合戦に西軍に組した藤懸永勝は他の部将と共に田辺城(細..
建田(たつた)とは武吉・佃・忠の頭字をとって付けられた村名である。 宝永六年(1709)武吉村源兵衛宅より始まる以下のいわれがある。 関ケ原の合戦に西軍に組した藤懸永勝は他の部将と共に田辺城(細川氏)を攻めたかどにより、所領一万三千石を六千石に減ぜられ慶長六年上林谷に入部、石橋城山の麓に陣屋を構えた。 その後、子孫を次々に分家させ、禄高は四千石になり財政は逼迫、その上度々の大水害にもかかわらず年貢米はきびしく取立てたため、領民は苦しみあえぎ、減免を訴えて出た代表の武吉村、佃村の庄屋年寄などはきびしく処分された。 たまりかねた農民は暴政を幕府に直接訴えようと計画し、その使を屈強な若者三人が志願した。 旅費を日頃修験道などで弥仙詣をして知る、他領於与岐村の庄屋吉崎五左ヱ門にもとめた。三村あげてのこの企を知った吉崎はすべてを覚悟してこれに協力した。 三人は死を決して出発、和知大簾で宿を借りたり、近路を教えられたり大井川の渡も川止め直前に都合よく渡り領主のさしむけた追手をうまくのがれ江戸についた。そうして幕府に訴え願はかなえられ、代官は罰せられて領民はすくわれた。 純朴な農民はこの越訴が成功したのは、一に日頃信仰するこんぴら大権現の御加護によるものとし願がけの通り千年の講を行うこととし、その後毎年盛大な講を営むことになったと言われている。 この講は三町区を輪番にまわり、町区内の神を祀る家(講元)を順番に回していたが、当番となる家の負担が大きいことから、数年前に新しく社殿を建立し、そこに神を祀ることとなった。
建田(たつた)のこんぴらさん
大祭11月10日
無料
なし