だいとくじ
滋賀県甲賀市水口町本町3丁目3−46
もと禅宗寺院で、「林慶寺」と称していたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の命により、中村式部少輔(中村一氏)が古城山に岡山城を築き、天正16年(1588)に、城西二町西方の土地を施し菩提寺を建立し..
もと禅宗寺院で、「林慶寺」と称していたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の命により、中村式部少輔(中村一氏)が古城山に岡山城を築き、天正16年(1588)に、城西二町西方の土地を施し菩提寺を建立し、浄土宗「浄慶寺」としたのが始まりである。小田原の大蓮寺の僧叡誉上人を招き開山上人とした。 開基大檀那中村侯の後、二代渡辺右衛門、三代長束正家の城主も菩提寺とした。 慶長5年(1600)徳川家康公が関ケ原陣の上洛の再、叡誉上人(家康幼少の時、手習いを教えた人)の出迎えで当寺に立ち寄り、松平家・家康公の二字より「家松山」の山号を賜る。と同時に釣鐘も拝受している。また、寺紋に、徳川の定紋(葵紋)に、丸小右離れの「立葵」の使用も許された。慶長7年(1602)には、「花咲松」「千年松」の二本の松と「大将軍徳川」を引用し、浄慶寺を改め「大徳寺」の寺号も下賜されている。 慶安2年(1649)将軍家光公より、29石3斗9升6合の石高の御朱印を拝領したのが始めで、明治初年に至るまで歴代将軍より下付されてきた。就中、水口城主加藤氏は、帰信一層篤く、寄付物品東の外護により、隆盛をみるに至るが、宝暦8年3月祝融の災いによりことごとく灰燼となる。 復興を重ねて、以来、四百有余年、念仏道場の法水ここに至る。 (大徳寺パンフレットより引用)
家松山
清浄慶院
浄土宗
天正16年(1588)
阿弥陀如来
叡誉上人
中村式部少輔(中村一氏)
びわ湖百八霊場第83番
無し
有り