ほうしょういん
広島県広島市中区白島九軒町12ー4
天正年間、毛利輝元公広島築城の折、広島城の鬼門守護して慶長三年(一五九八年)住古よりこの箱島(白島の古名)に祀ってあった掟明神社を造営しその別当として、築城奉行二宮太郎右衛門就辰(輝元公の叔父)の子..
天正年間、毛利輝元公広島築城の折、広島城の鬼門守護して慶長三年(一五九八年)住古よりこの箱島(白島の古名)に祀ってあった掟明神社を造営しその別当として、築城奉行二宮太郎右衛門就辰(輝元公の叔父)の子孫増仙法印を開基として、伽藍一を建立せしめ社領として五百石を給わせられた。慶長五年豊臣方に味方し戦った毛利公は、徳川方に敗れた為防長に移封された。次の藩主福島正則公の代に寺領を没収される。明治初年神仏分離の際に、碇神社と境内を分離縮小された。昭和二十年八月六日、原子爆弾に被爆し諸堂ごと焼失した。昭和五十年に本堂続いて五十四年に会館庫裏が復興せられた。本尊阿弥陀如来は桃山時代の作である。墓地には浅野藩四代藩主綱長一公の側室春登院殿が天文元年(一七三六年)に建立された宝篋印塔がある。鎮守には、若宮稲荷と当護稲荷というダブルの稲荷大明神が祀ってある。境内には昭和五十一年に水子地蔵尊が建立され霊験新たかなお地蔵さんとして、参拝者が絶えない。