じゅりんじ
大分県臼杵市諏訪738
臼杵市諏訪紫野の樹林寺は、臼杵市歴史史談会元会長(故.吉井正治)の調査によると九州の3分の2(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後)を大分(豊後)の地より治めた戦国大名である大友宗麟が永禄6年(15..
臼杵市諏訪紫野の樹林寺は、臼杵市歴史史談会元会長(故.吉井正治)の調査によると九州の3分の2(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後)を大分(豊後)の地より治めた戦国大名である大友宗麟が永禄6年(1563年)京都大徳寺より怡雲宗悦を招き建立し、自らが出家得度し義鎮(よししげ)の名を宗麟(そうりん)と改めた出家得度の寺です。 樹林寺は天正14年(1586)薩摩兵が乱入した際焼かれのち、廃寺となったがそののちに臼杵藩主となった稲葉家の別荘(養気亭)となり昭和12年、稲葉家より購入した河村家の所有となったがこのたび大きな縁のもと、本能寺の流れをくむ法華宗の寺院として432年の時を経て当時の場所に再興しました。 大友家は大きく繁栄し遠いヨーロッパにもその名を知られた宗麟。その次期当主である大友氏22代大友吉統(よしむね)の時代に大分の地を離れます。 当時の最高権力者豊臣秀吉の怒りを買った吉統は常陸国水戸に流されて幽閉(6年間)されましたが、徳川家康の時代になり許されました。吉統は恩赦の手続きをされた後陽成天皇や当時伏見城に居た徳川家康に御礼を申すと共に時代の流れを見定めたいという理由から京都に向かい、その際に仮の宿として住まわれていたのが本能寺でした。 本能寺は法華宗の本山であり、本山の主(あるじ)たる御貫首のすすめで吉統は当時お題目(南無妙法蓮華経)をお唱えしながら、故郷である豊後大分に帰りたいと願ったであろうことは容易に想像されます(『豊後の武将と合戦』渡辺克己著・大分合同新聞社・p278より意訳)。 この縁により、432年の時を経て大友氏の霊をお迎え奉るべく御霊跡寺院として不思議なご縁を頂戴しこの度再興されました。但し、檀家制度が始まった江戸時代以前の寺なので、護寺をお願いできる檀家さんがございません。したがって現在は多少あれておりますが、いただいたご縁を大きく育み大きく発展できるよう「さすが、大友宗麟公出家得度の寺民の幸福を望んでいる」と喜んでいただける寺院を目指して努力しております。 (大縁山樹林寺公式HPより引用)
大縁山
法華宗
本門流
本能寺末
永禄6年(1563年)
大曼荼羅
怡雲宗悦
平成30年11月13日
拝観の場合は、要導山妙顕寺(住職代務者)に要連絡
有り