たきょうじんじゃ
静岡県静岡市葵区建穂271
当神社の創建は詳らかでない。 三代実録に、「陽成天皇元慶二年四月己卯。授駿河國正六位上岐都宇命神従五位下。」とあるはこの神社といわれる。 延喜式神名帳にも載せられ、諸郡神階帳に正五位下建穂神社とあり..
当神社の創建は詳らかでない。 三代実録に、「陽成天皇元慶二年四月己卯。授駿河國正六位上岐都宇命神従五位下。」とあるはこの神社といわれる。 延喜式神名帳にも載せられ、諸郡神階帳に正五位下建穂神社とあり、惣國風土記には「建穂神社所祭天照大神也。」とあり、類聚国史には、聖武天皇天平七年、 右大 臣藤原武智麻呂御帳田奉納のことが見られる。又吾妻鑑にもこの神社の神託の事が記され、又永正三年。 叡山の僧存海が録した金玉集に、大宰大貳が千本の櫻を分けて当神社に植えしめ、 その子従三位藤原有家朝臣が和歌を詠んで寄せられた事が書かれている。 宝町時代の慕景集にも、 太田道真が参拝して幣を奉った事が載せられており駿河国では屈指の名社であった。 建穂の語源はアイヌ語のトキウで沼葺處の意であると言う。この建穂の開村は極 めて古く、開村と共に創祀された当神社も静岡でも最古に属するものであろう と思われる。仁徳天皇の御代に帰化した秦氏族が諸郡に配置され、和銅年代には 駿河国は全国有数な養蚕地となり、その絹帛の大部分は、 建穂、羽鳥等に住する、 服部(はとりべ)に依って産出されたのであるが、当神社は養蚕の神馬鳴の神と習合されて馬嶋大明神と称され、服部の信仰を集めた。 天平年間秦氏族の信仰に より建立された建穂寺が建穂神社の別当となり、鎌倉時代には主客が転じて、 建穂神社を建穂寺の鎮守とするに至った。 こうして建穂寺は、当神社を中心として、堂塔を構えて盛大となり、今川、武田 等より幾度か朱印状が贈られた。 特に徳川時代に至り、慶長七年十二月八日家康より四百八拾石六斗の朱印を建穂寺に与えられ、学頭以外に甘一坊を有した。明治元年神仏分離令により仏堂伽藍は一切取除かれて、 建穂寺は廃寺となり、社僧は復飾して、建穂神社は本来の姿に帰り、 明治六年第五大区四小区の郷社に列せられ、藁科五ヶ村四十部落が郷社区域となった。 大正七年無格社白髭神社を合祀し、昭和十一年無格社八雲神社を合祀した。 大正十五年現在の拝殿を建築した。 昭和十六年神饌幣帛料供進神社に指定された。 昭和二十年十二月十五日の連合國軍最高司令部の神道指令により、すべての神社の國家管理は廃止され、 当神社は昭和二十一年七月三十日新たに神社規則を作り宗教法人令に依る届出をなし、宗教法人「建穂 「神社」として発足し、昭和二十七年宗教法人法による登記をした。
保食神 天照皇大御神
(合祀神) 猿田彦命 須伊之男命
旧指定村社 10等級
662年 (白鳳13年)
本殿 9.9㎡ 拝殿 49.5㎡
10月18日
無料
15分
境内に数台駐車可能
無し