やまもものみささぎ
奈良県奈良市佐紀町
遺跡名は「市庭古墳」。 長らく円墳と考えられてきたが、昭和37年(1962年)の調査で前方後円墳であった事が判明した。 平城京築造時に前方部が取り壊されたとされ、平城天皇陵を疑問視する見方も出て..
遺跡名は「市庭古墳」。 長らく円墳と考えられてきたが、昭和37年(1962年)の調査で前方後円墳であった事が判明した。 平城京築造時に前方部が取り壊されたとされ、平城天皇陵を疑問視する見方も出ている。
平城天皇:桓武天皇の第1皇子で、次帝の嵯峨天皇は弟である。 延暦4年(785年)11月25日、桓武天皇の皇太子であった叔父の早良親王(崇道天皇)が藤原種継暗殺事件で流罪道中に死亡し、代わりに立太子される。もともと小殿(後の平城天皇)が幼少すぎたため、代わりに立太子していたのが早良親王だったため、皇太子交替に異論は出なかったという。 しかし父である桓武天皇とは不仲であり、さらに妃の母にあたる藤原薬子を溺愛していく。 桓武天皇は薬子を追放し、薬子の夫である藤原縄主を春宮大夫(皇太子のお目付け役)につけたことから、ますます不仲は深まったとされている。 延暦25年(806年)3月17日に父帝が崩御すると同日践祚。改元して大同元年5月18日即位。これ以降即位に先立って践祚を行ないその後に即位式を行うことが制度化したと考えられている。薬子を尚侍として手元に戻す一方、薬子の夫の藤原縄主を従三位に昇進させ大宰帥として九州に遠ざけてしまう。 即位当初は政治に意欲的に取り組み、官司の統廃合や年中行事の停止、中・下級官人の待遇改善など政治・経済の立て直しを行い、民力休養に努めるも、大同4年(809年)4月1日、病気のため在位僅か3年で皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり旧都である平城京に移り住んだ。 譲位にも反対していた仲成・薬子兄妹の強い要請を容れ、大同5年(810年)9月6日、平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図ったが、嵯峨天皇側に機先を制され、10日には薬子の官位は剥奪される。 平城上皇側はこれに応じて翌11日に挙兵し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、太政官だった坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻り直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺してしまう。 この「薬子の変」の後も平城上皇は平城京に滞在して「太上天皇」の称号はそのままとされ、嵯峨天皇の朝覲行幸も受けたり大宰権帥に遷された阿保親王、廃太子高岳親王の2人の皇子にも四品親王の身位を許されたなど、相応の待遇は保障されていたようである。
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