承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵をあげたが幕府に鎮圧された事件を承久の乱という。承久の乱の頭目とみられたのが承久殉難五忠臣といわれる5人の公卿で一条信能はその一人である。彼は官軍の一将として出陣した岩村城主遠山景朝に伴われて鎌倉へ護送される途中幕命により、同年8月14日ここ遠山荘岩村の相原で処刑された享年32才であった。承久記では処刑をいたみその模様を美文で綴っている。処刑の日を吾妻鏡では7月15日としているが公卿補任では8月14日とされ他の四忠臣との関連から後者の説が正しい。村人はこれを哀れみ処刑地に小祠を建てて霊を弔い若宮社と称してささやかな供養を続けてきた。其の後6百数十年を経て明治の王政復古となり、明治13年(1880)6月明治天皇が中山道御巡幸の折承久の乱にあたって殉じた一条信能の英魂を御追認され、特旨をもって岩村へ勅使を派遣、祭粢料を賜った。昭和3年(1928)11月正三位贈位の恩命があった。現在は岩村夏祭りとして毎年8月に全町をあげて祭礼を行なっている。昭和32年12月19日岐阜県指定史跡となった。
(岐阜県神社庁資料による)