くまのじんじゃ(おおがきしくまのちょう)
岐阜県大垣市熊野町115
熊野に座す神は人々の幸福と繁栄と平和を導かれ、人々は楽しく生きる力を与えられて、鎮座された出雲の国の熊の神社(旧国弊大社)から勧請された御分霊である。その後、平安末期の本地垂述説(仏が神の姿になった..
熊野に座す神は人々の幸福と繁栄と平和を導かれ、人々は楽しく生きる力を与えられて、鎮座された出雲の国の熊の神社(旧国弊大社)から勧請された御分霊である。その後、平安末期の本地垂述説(仏が神の姿になった権現)により、大権現として古来より里民に崇拝されてきた。 熊野神社の創建年月は判然としないが、熊野町は紀元前の縄文時代の土器が発見されており、熊野権現の廃寺跡からは奈良朝期の瓦の破片(布目瓦)が発見され、熊野神社の御神体とされていることから奈良時代に創建されている。 真光寺々伝によれば、熊野神社は社領二百五拾石を有する神社で、規模は広大にして計り知れない宏荘な大社と記されている。熊野山大権現は東に水の神・津島大社(福田町)中央に火の神・荒橋大社、西に土の神・熊野大社と百有余間の等間隔に祭祀して水の狂更に三ノ宮の前たちとして、桧町に楯築神社を迎え祭祀されている。 菊花十六弁の皇室御紋章を戴く熊野神社(大権現)は、朱塗りの一の鳥居大門は綾野町に、二の鳥居は桧町に、参道は綾野町より一本道で造られていた。宮守は綾野城主であった西尾左近(源義朝の従兄弟)一族が、綾野より日夜出仕して勤めたといわれている。その後、宮守は熊野神社(大権現)に向かって西側にあった福成院(現真光寺)が宮守を勤められ、1620年頃福田町に移られた。今も綾野町の祭礼には、五両の車山が綾野の氏神白髭神へ参上の途中、大門より熊野神社(大権現)に向かって、各奉芸するのを古来より慣習としている。 鎌倉時代承久の乱で損壊し、再建を図るも度重なる天下の乱に里民疲弊し、神社は村の再建を願い、社領えお寄付して小社となった。歴史の波と相次ぐ戦乱に寺院も壊滅に追い込まれる中、六院中ただ一つ、福成院のみが残り、熊野神社(大権現)を守り継がれてきた由緒ある神社である。 昭和20年7月29日の大空襲で焼失したが、氏子崇敬者は復興を念じ、昭和48年に拝殿を再建した。 この度昭和61年に着手した熊野町土地区画整理事業の完成(平成8年)を期に氏子有志の浄財により神殿を新築し神社を一新して神恵に感謝するところである。
熊野神社境内由緒書きによる
素戔嗚尊(熊野山大権現) 天照大神(内社;神明神社) 豊受大神(内社;御嶽神社)