あまこやすじんじゃ
埼玉県秩父郡東秩父村皆谷87
『関八州古戦録』によると、天正年間(1573~1592)、小田原北条を討つため、豊臣秀吉は前田利家の軍勢を東山道から関東へ向かわせた。そのころ北条方の松山城主上田憲定は小田原城に立て籠り、松山城は城..
『関八州古戦録』によると、天正年間(1573~1592)、小田原北条を討つため、豊臣秀吉は前田利家の軍勢を東山道から関東へ向かわせた。そのころ北条方の松山城主上田憲定は小田原城に立て籠り、松山城は城代山田伊賀守以下五千余名の家臣が守っていたが、七万の前田軍には勝ち目もなく、無血開城となった。一方、憲定は小田原城落城後、単身松山城にたどり着いたものの、すでに城は敵の手に落ち、やむなく東秩父の御堂村の日蓮宗浄蓮寺へ逃れ、かくまわれた。浄蓮寺は上田能登守が病気平癒を祈願して以来、所縁のある寺で、『新編武蔵風土記稿』にも「病悩(びょうのう)たちどころに平癒することを得たり、夫(それ)によりて松山の一族悉(ことごと)く改宗して浄蓮寺の檀那となる」とあり、松山城と深い関係があった。 しかし、浄蓮寺は黒印地を受けていたため、長くはかくまえず、憲定は寺との関係を断って小川の曹洞宗大梅寺の檀那となるとともに浄蓮寺に祀ってあった運慶作と伝える一尺一寸の鬼子母神像を持って御堂村から、かつて家臣であった関口忠左衛門を頼り、皆谷村に移って曹洞宗光官寺を建立し、境内に鬼子母神社を建てた。これが当社の創建である。また、憲定は苗字も上田姓から関口姓に改め、関口忠左衛門は自らの居屋敷を明け渡し、後へ退いて幕府の目を逃れた。 明治になり、神仏分離によって当社は光官寺から離れ、隣接地に境内を設け、天児安神社と社号を改めた。
木花開耶姫命
祈年祭(3月下旬の日曜日) 例大祭(10月下旬の日曜日)
無し。