当社の創建は不詳。隣接して別当寺「建護寺」があったが、永禄中(一五五八~六九)兵火により、社寺は名実共に滅んだ。時しも流行病おこり人馬の仆れるもの多く、里人氏神の崇りと恐れて、旧社地に小祠を建ててわずかに祭祀を続けたが、一向に旧状に復しなかった。明治五年に至り村社に列格、翌六年氏子大いに信仰を起こし社運も高まり、御門・垣を整え復旧に努めた。明治四一年九月、旧中原村全域の神社を津屋城の竜王神社に合祀して中原神社となったが、過去の事情に鑑み、氏子の総意で環御の儀あり、旧社地に奉斎するの許可を得て、昭和二五年に分祀奉斎した。