あけちじんじゃ
福井県福井市東大味町
明智光秀が朝倉氏に身を寄せていた時の屋敷跡と伝わる場所に、「あけっつぁま」と呼ばれる小さな祠「明智神社」があります。中には高さ13cmの木彫りの光秀座像が祀られています。 この木像は東大味町の3軒..
明智光秀が朝倉氏に身を寄せていた時の屋敷跡と伝わる場所に、「あけっつぁま」と呼ばれる小さな祠「明智神社」があります。中には高さ13cmの木彫りの光秀座像が祀られています。 この木像は東大味町の3軒の農家が「生きているのは光秀公のおかげ」と、光秀の像を密かに400年以上守り続け、現在に至るまで、東大味町の人々は光秀を慕いこの祠を守り続けてきました。 天正3年(1575年)、柴田勝家が一向一揆を鎮めるために、現在明智神社のある東大味地区に兵を送り込もうとしましたが、光秀は住民を守るため勝家に申し入れをし、東大味は戦禍から救われました。 その後、光秀は戦乱の中、本能寺の変で主君信長を打ち秀吉に敗れ、「逆臣」の汚名をきせられました。 さらに時代が進み、歴史上から光秀の評価が抹殺されることになった中で、光秀を祀ることは許されることではなく、世の非難、中傷は絶えなかったのでしょう。 逆臣、裏切り者と称される光秀ですが、約10年間身を置いた越前に感謝し、住民を思いやる姿こそが、光秀の本当の素顔であったと伝えられています。 近年歴史的評価が変わり、400年もの間たった3軒で守られてきた明智神社の管理が町に移管されることになり、祠は明治19年(1886)にこの農家の発願で建設されました。 全町民からなる「明智神社奉賛会」を組織し、毎年6月13日(光秀命日)の法要には御開帳が行われ、本尊である光秀の木像を見ることができます。 なお、この地は光秀の娘・細川ガラシャ(明智珠)の生誕地でもあります。
明智光秀
高さ13センチメートル程の木彫りの明智光秀座像
明治19年(1886)
あけっつぁま
毎年6月13日(光秀命日)の法要
北陸自動車道福井ICから車で40分
終日見学自由
無料
無