ちょうふくじ
神奈川県横浜市都筑区仲町台4-8-10
長福寺は、「新編武蔵風土記稿」には、「本社(熊野社)に向いて右にあり、禅宗曹洞派...久松山と称す...本尊釈迦木の坐像長一尺二寸許...」とあり、末社に毘沙門堂、稲荷社を記載しています。 開..
長福寺は、「新編武蔵風土記稿」には、「本社(熊野社)に向いて右にあり、禅宗曹洞派...久松山と称す...本尊釈迦木の坐像長一尺二寸許...」とあり、末社に毘沙門堂、稲荷社を記載しています。 開山は、天正3年5月(1575年)鶴見区の下末吉宝泉寺4世自山純応大和尚。 大和尚は、今川氏の末流入野三郎助で父の命により11歳の時、能登国總持寺に入り出家し、得度後宝泉寺3世、林翁聚雙の法孫となり、後長福寺の開山となりました。 その後長福寺は、安政元年(1854年)火災のため堂守全焼、文久4年(1864年)には再建しています。よって旧本堂は、平成5年(1993年)に墓地再開発のため解体されるまで129年を経ていました。 現在の諸堂伽藍は、平成5年(1993年)より開始された墓地再開発に伴い、檀信徒総意の元、約4年の年月を経て平成9年(1997年)に完成いたしました。 久松山長福寺の成立は、境内にある熊野社の別当寺としてでした。 熊野社は、現在は長福寺の境内社となっていますが、江戸時代までは独立した神社で、長福寺は、その経営管理を任されていたことになります。 江戸後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」によりますと、この熊野社は、平将門が願を懸けたという伝説があるといいます。 「熊野社は『本地仏弥陀木の立像長四寸許』を祀り、縁記によるに、当社は承平年中(931~938年)平将門宿願によりて、不思議の霊夢を蒙り、この社に七日参篭せる夜、コケラ(※草冠に冊)不動閻浮檀金(えんぶだごん)の観音を授かり、それより将門威勢盛んになりとぞ、その後天文年中(1532~1555年)に至り橘樹郡篠原村の城主師岡越前の守伽藍を再興せし、が戦国の折なれば次に修理を加える者なく自ら破損せり」と記されていますが、江戸時代には、社領玉石除の御朱印を受けています。 その後、明治42年(1909年)村社大熊杉山神社に村内数社とともに合祀されました。 しかし、御神体は、合祀後も長福寺に残り本堂の本尊横に安置され、熊野権現として祀られ続けていました。昭和9年(1934年)に28世青楓大和尚が社を再建し本堂から御神体を遷しましたが、昭和55年(1980年)に修理が施され、平成5年(1993年)諸堂伽藍の建設に伴い解体、平成8年(1996年)に現在の社に新築されました。
境内社に熊野神社がある。
久松山
曹洞宗
天正3年 (1575年) 5月
釈迦牟尼仏
自山純応大和尚
横浜市営地下鉄ブルーライン 仲町台駅から徒歩10分
無料
10分(墓所除く)
有り