かわごえじょうほんまるごでん
埼玉県川越市郭町2-13-1
川越城は、扇谷上杉持朝が古河公方足利成氏に対抗するため、長禄元年(1457)に家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて築城したものです。当初の規模は、後の本丸・二の丸を合わせた程度と推定され..
川越城は、扇谷上杉持朝が古河公方足利成氏に対抗するため、長禄元年(1457)に家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて築城したものです。当初の規模は、後の本丸・二の丸を合わせた程度と推定されています。 やがて川越城は、天文6年(1537)後北条氏の占拠するところとなりましたが、同15年(1546)川越城の奪回を図った上杉氏は後北条氏の奇襲に会い、大敗して群馬に逃れ、それ以後、後北条氏の支配が決定的となりました。川越城を掌中に収めた後北条氏は、周辺の旧上杉氏所領を直轄領に組み込むとともに、城代として譜代の重臣大道寺氏を配置しました。 天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家に攻められて落城しました。 やがて同年8月徳川家康が一族家臣を従えて関東に移るにおよび、重臣を重要な地に配して領国の安定を図りました。川越には酒井重忠が1万石をもって封じられ、ここに川越藩の基礎が成立しました。 寛永16年(1639)、川越藩主となった松平信綱は川越城の拡張・整備を行い、近世城郭の形態を整えることとなりました。即ち本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪、三つの櫓、十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いて4万6千坪となりました。 現存する建物は嘉永元年(1848年)に建てられたもので、本丸御殿の一部として玄関・大広間・家老詰所が残り、川越藩17万石の風格をしのばせています。 また、本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城の他には高知城のみで、貴重な遺構となっています。日本100名城19で、埼玉県有形文化財、埼玉県史跡です。
東武東上線・JR川越駅、西武新宿線 本川越駅から東武バス神明町車庫行きで札の辻下車、徒歩約8分。