かぐらがおかのひがしのみささぎ
京都府京都市左京区浄土寺真如町
陽成天皇:生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876年)11月に9歳で父・清和天皇から譲位され、第57代天皇として即位し、母方の伯父・藤原基経が摂政に就いた。 在位の初めは両親および基経が協力..
陽成天皇:生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876年)11月に9歳で父・清和天皇から譲位され、第57代天皇として即位し、母方の伯父・藤原基経が摂政に就いた。 在位の初めは両親および基経が協力して政務を見たが、元慶4年(880年)に清和上皇が崩じてからは基経との関係が悪化し、元慶7年(883年)8月より基経は出仕を拒否するようになる。 基経は清和天皇に娘2人を入内させていたが、さらに陽成天皇の元服に際して娘の佳美子または温子を入内させようとしたのを、母で皇太后の高子(基経の妹)が拒否したためである。 藤原基経の出仕拒否からしばらく後の元慶7年(883年)11月、陽成天皇の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されるという事件が起きる。事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、陽成天皇が事件に関与していたとの風聞があったといい、故意であれ事故であれ、天皇自身が起こしたか少なくとも何らかの関与はあったというのが、現在までの大方の歴史家の見方である。 宮中の殺人事件という未曾有の異常事に、基経から迫られ、翌年2月に退位し、満15歳で太上天皇となる(公には病気による自発的譲位)。 退位後に幾度か歌合を催していることから歌才があったようで、『後撰和歌集』に入撰し、のちに『小倉百人一首』にも採録された。 長命を保ち、上皇歴65年は歴代1位で、2位の冷泉上皇の42年を大きく引き離す。 光孝天皇、宇多天皇の次代の醍醐天皇よりも長生きし、さらに続く朱雀天皇・村上天皇の皇位継承も見届けた。 天暦3年(949年)に満80歳で冷然院にて崩御されている。
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