ちづかはちまんじんじゃ
福岡県豊前市千束69-1
慶応二年八月(1866年)戦に敗れ、自らの手で小倉城と篠崎藩邸を焼いて逃れた。分家の千東一方石の藩主貞正は、同年十一月、領内安雲の光林寺に入り、明治二年塔田原に館の建設を始め翌三年十月に完成し、ここ..
慶応二年八月(1866年)戦に敗れ、自らの手で小倉城と篠崎藩邸を焼いて逃れた。分家の千東一方石の藩主貞正は、同年十一月、領内安雲の光林寺に入り、明治二年塔田原に館の建設を始め翌三年十月に完成し、ここに移り、旭城と名付けた。現存の城跡石垣は、その当時、千塚原古墳の石を使用したものである。明治四年の廃藩置県により、わずか一年ほどの千束藩の館であった。明治十三年、この跡地に束神社を建立、さらに大正五年、塔田の御霊八幡神社と野田のハ幡神社を合記して、千束八幡神社と改称して現在に至る。祭神は八幡大神、仁徳天皇を始め六祭神をお記りしている。
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