みすみはちまんぐう
山口県長門市三隅中市2066
往古豊前国宇佐八幡宮より勧請し、三隅郷中・通浦の惣氏神とするとある。南北朝時代の貞治年中(一三六二~)に社殿延焼の節、宝物や旧記等を悉く焼失したと言う。古くは社領五〇石であったが、安土桃山時代末期の..
往古豊前国宇佐八幡宮より勧請し、三隅郷中・通浦の惣氏神とするとある。南北朝時代の貞治年中(一三六二~)に社殿延焼の節、宝物や旧記等を悉く焼失したと言う。古くは社領五〇石であったが、安土桃山時代末期の慶長年中(一五九六~)、堅田大和守が領主であって、八幡宮神官第二五代古屋左近成延の時、減高五石となった。御造営及び修理については、天正五年(一五七七)に仮殿を造営、同六年(一五七八)に御本地阿弥陀三尊を奉遷する。江戸時代の慶長十六年(一六一一)に再建し、明暦三年(一六五七)に修理。寛文九年(一六六九)に修理し、貞享四年(一六八七)にも修理。宝永四年(一七〇七)・天明七年(一七八七)に再建する。文化六年(一八〇九)に修理。大正十三年(一九二四)に再建する。また「由来控」によれば、藩主代々御初国入りには、必ず当社の神官に対して御目見えが許された。また、御在国時には正月に御目見えを仰せつけられた。又近辺へお下りの節は、必ず当社へ御参詣になった。さらに御通行時には御本陣御座所を仰せつけられ、その時御領安泰の御祈祷を執行し、御祈祷物を献上したという。このように藩主毛利氏の尊崇が厚かった。明治六年(一八七三)郷社に列する。
誉田別天皇 大鷦鷯天皇 気長足姫尊
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あり