くにつひめじんじゃ
山口県防府市富海2758-1
旧社格は郷社 伝説では第40代天武天皇の御世、里人が海岸守護のため祖神として宗像三神(田心姫命タゴリヒメノミコト・湍津姫命タヅキヒメノミコト・市杵島姫命イチキシマヒメノミコト)を岡の宮に奉斎したの..
旧社格は郷社 伝説では第40代天武天皇の御世、里人が海岸守護のため祖神として宗像三神(田心姫命タゴリヒメノミコト・湍津姫命タヅキヒメノミコト・市杵島姫命イチキシマヒメノミコト)を岡の宮に奉斎したのに始まる。 「明神様ハ、推古天皇ノ御宇、筑紫ノ宇佐島ヨリ御船ニ召シ給ヒテ、津々浦々ノ宮所ヲ得サセ賜フ時、富海ノ浦ニ着キ賜ヒシオ船岡ニ祠リ・・・」とある。 脇地区の岡の宮(船岡山)に明神様をお祭りしてから幾年かの月日を経ての後、明神様の御宣託により浮洲と呼ばれていた現在の宮地に遷宮することとなり、多くの村人たちにより、岡の宮の明神様を元宮として国津姫大明神社を創建した。 これより以前、景行天皇の頃、大和の軍が筑紫の熊襲征伐の途中、周防娑婆に寄港した。この時、防府の地一帯に多くの部下を有する女首長の神夏磯姫なる者が来て、大和の軍に帰順の意を表わしたことからこの周防娑婆一円を領した女首長 神夏磯姫カムナツソヒメは国津神として配祀神として祀られている。 主祭神の三女神は、天照大神の同体分身で、筑紫の国の宗像大社・安芸国の厳島神社・豊の国の宇佐神宮の祭神と同じく、水徳の神といわれ、いずれの地でも海辺に崇祭されている。 弘治3年(西暦1557年)の、毛利と大内の戦いで富海の戸田山・石原・脇は戦渦に巻き込まれ国津姫神社の社殿も社坊も戦渦に遭遇する。毛利元就は、日頃から崇拝する厳島神社と同じ祭神であることを知り、6年後の永禄6年(1563年)に社殿を修築した。修築時社殿の棟札に「最初建立、承平5年乙未至今乃三百余歳・・・」と書かれていたと富海村史稿にある。 国津姫神社は、航海安全・交通安全・五穀豊穣の守護神として、また村の産土神としても崇敬されています。 現在の楼拝殿は安永二年(1773)の建立、徳山藩藩主 毛利就馴タカヨシ。
田心姫命タゴリヒメノミコト 湍津姫命タギツヒメノミコト 市杵島姫命イチキシマヒメノミコト 神夏磯姫命カムナツソヒメノミコト
有り