たきのかんのんじ
福岡県北九州市門司区大里5426番地
瀧の観音寺は、今から千二百余年前、後の天台宗の開祖「最澄」が、仏法伝授のため中国の隋に渡られる折に戸の上山に立ち寄られ神仏の棲む山、霊山として一字を建立された事に端を発するとされています。 その後..
瀧の観音寺は、今から千二百余年前、後の天台宗の開祖「最澄」が、仏法伝授のため中国の隋に渡られる折に戸の上山に立ち寄られ神仏の棲む山、霊山として一字を建立された事に端を発するとされています。 その後僧侶の修行地として認知され、鎌倉時代後期には山麓に「戸の上山 満隆寺」が修験道(天台宗系)の僧侶によって建立されました。現在の瀧の観音寺の境内地は、満隆寺の「奥の院」として文字通り滝修行の場として最盛期には日本各地から数百の僧侶が集まったようです。それを物語るように戸の上山各所には、伽藍跡地を思わせる石積みが多く見られます。隆盛を誇った満隆寺も江戸末期から明治初期には徐々に荒廃し、境内地もなくなり(地名として現在は「寺内」として残る)麓にある戸の上神社にその面影が残るのみになり、修行地の奥の院も人々の記憶から忘れ去られました。 現在の瀧の観音寺は、大正十二年に天台宗の高僧「晟尚法印」によって再興されています。
瀧の観音寺は、今から千二百余年前、後の天台宗の開祖「最澄」が、仏法伝授のため中国の隋に渡られる折に戸の上山に立ち寄られ神仏の棲む山、霊山として一字を建立された事に端を発するとされています。
天台宗
有り