いずものいわいじんじゃ
埼玉県大里郡寄居町赤浜723
本社は、延喜式神明帳(九二七)に「男衾郡 三座(式内社)」の一社としてその名が記されている出雲乃伊波比神社であるといわれている。しかし、度重なる災害のため、古資料はことごとく滅失し、弘治三年頃(一五..
本社は、延喜式神明帳(九二七)に「男衾郡 三座(式内社)」の一社としてその名が記されている出雲乃伊波比神社であるといわれている。しかし、度重なる災害のため、古資料はことごとく滅失し、弘治三年頃(一五五七)には字下河内の八幡塚に社殿が築かれていたと伝えを残すのみとなっている。天正八年(一五八〇)荒川の幾多の洪水に抗しがたく鉢形城主北条氏邦領地の時代に現在の地へ集落一体となって大移住を行い、本社殿も遷座した。以来、河岸段丘の赤浜は安住の地となり、既に四〇〇年余が経過し今日に至っている。正保三年(一六四六)には、水野石見守重郎左衛門忠貞が領地替え記念に社地及び境内に植樹したと伝えられている。 また、当社は「赤浜の八幡様」の呼び名で親しまれているが、それは天喜年中(一〇五三から五八)奥州征伐の途中、近くを通りかかった源頼義が、当社に白旗を献じて戦勝を祈願したことから、以後「白旗八幡社」と称するようになったためである。再び出雲乃伊波比神社と呼ばれるようになるのは、明治維新後のことである。これは、王政復古を機に、当社の社号も伝統ある出雲乃伊波比神社の旧号に復したものであるが、長い間使われてきた呼称への愛着は強く、今でもなお「八幡様」の通称のほうが広く知られている。なお、出雲乃伊波比神社とは、出雲系の豪族集団が出雲の祖神を祭祀した社、また「出雲の神を斎う」社と表されている。 (境内掲示より)
《主》須佐之男命
式内社(小)、旧郷社
不詳
一間社流造
赤浜の八幡様
10月2日
なし
有りますが、普段は柵をされて塞がれてます。