うづじんじゃ
広島県呉市豊町大長5006−3
社伝によれば、第七代孝霊天皇の第三皇子、彦狭嶋王が勅命を奉じ、伊予国に下向して「国家安泰の祈願所」として、伊予国越智七嶋のうち大長嶋に祓戸大神を鎮祭される。 鳥羽天皇の御代に、菅原氏が九州から..
社伝によれば、第七代孝霊天皇の第三皇子、彦狭嶋王が勅命を奉じ、伊予国に下向して「国家安泰の祈願所」として、伊予国越智七嶋のうち大長嶋に祓戸大神を鎮祭される。 鳥羽天皇の御代に、菅原氏が九州から京都に向かう途中に嵐に遭い、この港に船泊りした時に「汝、我を祀らば、これより後、災難に遭わず無事に帰国できる」と霊夢を蒙り、参拝したところ道中無難に帰る事ができたので、その旨を、国主河野親経に伝え、社を再建する。 上古の時代から中世にかけて、越智・河野・小早川氏の尊崇の念は特に篤く、各々の武将が挙兵するときには、当社に御祈願しては戦功を収めたので、武運長久・所願成就の守護神として、御神徳・御神威の高さが各地に広まった。小早川隆景は、三原城を築城するにあたり、危難除の守護神として、城内の一角に当社の御分霊を勧請するほど、当社に尊崇の念が篤かった(この分社は、現在は糸崎神社の境内に遷座されている)。 文久元年(1861)伏見宮貞教親王殿下は、当社を崇敬し給うこと、殊に篤く御撫物・函提灯一対・御自筆による短冊等を奉納されて「国家有事の際には、国家安泰の祈願をせよ」として、伏見御所永代御祈願所の御下命を賜る。これより、当社の御神徳の高さが瀬戸内海以外にも広まり、諸藩主の代参、国学者を始め文化人の参拝者が後を絶たず。北陸から九州にかけて、十六万世帯の崇敬者が各講を結成して、当社に病気平癒・商業繁栄・漁業繁栄・稼業繁栄・災難除などの各種祈願のために参拝している。 明治十四年(1881)有栖川親王殿下より、当社の御祭神を日本有数のミソギの神として讃える「神秖呈滌於身」の御自筆を賜る。 日清日露戦争に従軍する出征兵士の武運長久の祈願所として、全国より参拝があり、当社の「御衣のお守り」は「災難除け」の神として重宝された。 国弊社に昇格の件が持ち上がったが、境内地面積と建物面積を申請調査中に終戦となり、この件は立ち消えとなった。 安芸国神名帳には「従三位七郎御子明神」とあり、社格と由緒の深きことが示されている。
八十禍津日大神 神直日大神 大直日大神
歳旦祭 一月一日 初祭り百手神事(弓祭) 一月最終土曜日 八王子社 旧暦一月三日 春祭(国司祭) 四月二日 神武祭 四月三日 春季神衣祭 五月第二土曜日・日曜日 秋祭 九月最終土曜日 柑橘祭 九月最終日曜日 秋季神衣祭 十一月第二土曜日・日曜日 新嘗祭 十一月二十三日 大祓式 十二月三十一日