ほんもくはらあづまじんじゃ
神奈川県横浜市中区本牧原29-18
創建年代は不明ながら、本牧原一円の鎮守として、かつては吾妻権現社、吾妻明神社と称し、「新編武蔵風土記稿」「江戸名所図絵」にも紹介されている。 戦災で失われた神体像は、髪を束ね、右手に剣を持ち、..
創建年代は不明ながら、本牧原一円の鎮守として、かつては吾妻権現社、吾妻明神社と称し、「新編武蔵風土記稿」「江戸名所図絵」にも紹介されている。 戦災で失われた神体像は、髪を束ね、右手に剣を持ち、左手を帯に挟んで立つ姿で、煤のため真っ黒になっていたといい、その背面に「文和三年(1354)正月十七日祠基新謹平重広」と銘記されていたと伝わる。新田義貞の臣・篠塚伊賀の勧請とする説はこのへんから出ているという。 伝承によれば、神体像はかつて「向こう地」と呼ぶ江戸湾対岸の上総国木更津にあり、「お吾妻さま」として崇められていたという。たいそう子供好きの神様であったといい、ある寒い日、焚き火を囲む子供たちを見て、子供の姿に化身し、仲間に加わろうとしたが、子供たちは見かけない子供を仲間に入れず、焚き火の中に突き転ばして逃げ去ってしまった。あまりの熱さに「お吾妻さま」は海に飛び込み、そのまま本牧の浜に流れ着き、地元の漁師吉兵衛の網にかかった。吉兵衛は焦げた「お吾妻さま」の腹部に布を巻いて本牧の地に祭ったという。ひどい目に遭った「お吾妻さま」ではあるが、子供好きであることに変わりはなく、小児の病難を救い、癇の虫を封じてくれたため、安産の神様、子供の神様、虫封じの神様として信仰され、願いが叶ってお礼参りする人々は、いつしか神前に粟餅を供えるのが恒例になったという。
日本武尊
村社
1月17日前後、7月17日前後