けながじんじや
埼玉県草加市新里町342
当社の名に由来する毛長川は、かつての入間川の流路に当たり、新里はこの自然堤防に発達した集落である。当社が鎮座する字毛長沼外瓦は、低地ながら縄文時代から各時代の遺跡が発掘されており、開発の古さを物語る..
当社の名に由来する毛長川は、かつての入間川の流路に当たり、新里はこの自然堤防に発達した集落である。当社が鎮座する字毛長沼外瓦は、低地ながら縄文時代から各時代の遺跡が発掘されており、開発の古さを物語る。 当社の創建年代は不詳であるが、「風土記稿」新里村の項に「毛長明神社 祭神詳ならず、稲荷雷神を合祀す、此社毛長沼の邊にあり、沼を隔て々舎人町に祀れる諏訪社を男神と稱し、當社を女神と稱せり。古は髪毛を筥に納めて身體とせしが、何の頃にやか々る不浄の物を身體とするはあるまじきことなりとて、毛長沼に流し捨しと云傳ふ、神號も是より起りしにや、又毛長沼の邊にあるによるか」とある。 明治期に記された「新里村毛長神社由緒」及び「地誌材料稿」(草加市住吉・染谷家蔵)によると、当社の社地は、もと万郷又は万石長者の屋敷で、ある時、急に黒雲が起こり、天地が鳴動し、つむじ風が起き、長者の屋敷と家族は巻き上げられ、毛長沼に飛ばされ沈んでしまった。跡には大神宮の御祓が一本残されただけで、これを悼んで里人は、この御祓を長者が祀っていた稲荷の祠に合祀した。しばらくして、この祠の前の毛長沼の岸に数尺の毛髪が漂い、どうしても流れて行かないため、これは長者の若い娘の髪であろうということになり、拾い上げて箱に納め、前の祠へ合祀して毛長三社大明神と号した。 また、長者の屋敷の本尊が阿弥陀如来であったので、蔵の跡に寺を建てて尊像を納め、泉蔵院と名付けて山号を御幣山とし、毛長明神の別当とした。更に、いつのころか泉蔵院の僧が、神体とする毛髪を鎌倉へ持って行ってしまった。それで、今も鎌倉の某所に毛長神社があるという。その後、文政年中(一八一八〜三〇)に京都(神祇管領)から改めて毛長神社と定められ、この神は稲穂の神なので毛長沼に面する村々は鎮守同様に守るように言われた。よって当社は、新里村・市右衛門新田・彦右衛門新田の三か村の鎮守とした。その後、明治御一新の際、祭神を確定すべきとの宣布により、祭神不詳であったため、新たに大己貴命とした。故に毛長神社は、倉稲魂神・別雷槌神を併せて三柱という。更に、享保十年(一七二五)九月二十一日修造の棟札(現在所在不明)写しから、別当泉蔵院八世融儀の名と新里村・彦右衛門新田・市右衛門新田の合計四四一名の氏子数がわかる。 現在、三間社流造りの本殿には、先に触れた文政十一年(一八二八)に神祇官卜部良長より受けた幣帛が納められている。 なお、当社参道に建てられている石鳥居は、かつて江戸の水戸藩邸の屋敷鎮守のものであったという。それを尾張兵助という商人が買い取ったものを当社の氏子が懇願し、隅田川ー綾瀬川ー毛長川と船でさかのぼって当社まで運んだという。ちなみにこの鳥居には「明治十四年四月吉日 氏子中」と刻まれている。
毛長姫命 倉稲魂命、別雷槌神、大己貴命
不詳
無料
約5分
無し
有り