当地は、古くは上小村田村といい、慶安-元禄年間(一六四八-一七〇四)に並木村から分村した。
口碑によれば、当社はもと中小村田村にあったが、分村の際に今の地に移されたとも、度重なる大水を避けて今の地に移されたとも言われている。また、今の社地は横沼家(当主孝二)の先祖が提供したとされている。同家は「名主様」の屋号で呼ばれる旧家である。一方、『風土記稿』上小村田村の項に当社は寿福寺の境内社として「氷川社 元中小村田村にありしを、後にここに移せりといふ」と記され、更に中小村田村の項には「小名宮地 上小村田村にある氷川社、古ここにあるをもって此小名あり」と記され、先の口碑を裏付ける。元地とされる宮地は、現在地の東北東三〇〇メートルほどの所で、桜木町四丁目八〇五番地に当たる。かつてここから当社の遺物が出土した。
寿福寺は医王山無量院と号する真言宗の寺院で、神仏分離により明治四年に廃寺となった。明治三年の「大宮組合神社細詳取調帳」によれば、宝永二年(一七〇五)銘の箱に入った木仏を神仏分離に際し隣の寿福寺に移したという。その後、同寺の建物は集会所として利用されてきたが、昭和四十二年の神社会館建設に際して取り壊された。
神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となり、同四十一年に大字中小村田字西耕地の村社諏訪社をはじめとする計一〇社を合祀した。(「埼玉の神社」より)