えんめいじ
大阪府東大阪市菱屋西4-5-15
伽羅陀山延命寺は、もと一心庵と称し、明治十三年三月仏定上人により中興されました。寺の起こりは、寛文二年(一六六二)頃、京都獅ヶ谷法然院二世忍徴上人が、石清水八幡宮の境内に一堂を建て、身の丈一丈六尺(..
伽羅陀山延命寺は、もと一心庵と称し、明治十三年三月仏定上人により中興されました。寺の起こりは、寛文二年(一六六二)頃、京都獅ヶ谷法然院二世忍徴上人が、石清水八幡宮の境内に一堂を建て、身の丈一丈六尺(四・二五メートル)の地蔵尊を安置したことにさかのぼります。 地蔵菩薩はその美しい姿と霊験により、多くの信者を集めていたと伝えられています。そののち三百年あまり経て、明治維新政府の出した神仏合祀禁止令により、平安城南、昌玉庵に遷されますが、辺境のため人びとの香華供養も滞りがちでした。 法然院二十五世仏定上人はこのことに深く心を痛めていましたが、たまたま大阪高津に一心庵という無住の荒れ寺があるのを知ります。早速信徒とともにこれを大阪随一の繁華街、難波新地(現高島屋位置)に移し、新しい堂を建て、延命地蔵尊を迎え、その名も延命寺と改めました。 これより急速に信者も増え、黒門市場より延命寺までを延命寺通りと呼ばれるまでになりますが、社会状勢の変化とともに、南海電鉄・高島屋の難波進出で、延命寺もやむなく新しい信仰の土地を求めて移転することになります。大正十三年三月、近鉄小阪、長瀬川沿いの地に居を定め、現在に至ります。
この延命地蔵菩薩坐像は鎌倉時代後期の作と伝えられ、地蔵菩薩像としては全国に珍しい大型木彫(檜材寄木造)で、やさしく、慈愛に満ちた目元、ひきしまった口元、右手に錫杖、左手に宝珠を持った壮麗な坐像です。訪れる人に心の安らぎを与え、特に安産腹帯地蔵尊として、また水子供養など、大阪はもとより遠来の参拝者が跡を絶たないといわれます
伽羅陀山
浄土宗
河内西国三十三所第32番札所
本尊阿弥陀如来(大阪府有形文化財)