うじじんじゃ
和歌山県和歌山市新魚町15番地
「宇豆比古様」は第八代孝元天皇(紀元前214~156)の皇子でその妹、紀伊国名草郡宇治郷に影媛様がいました。 やまとたけるの命の命により紀伊国へ屋主忍男武雄心命が来て(景行天皇の御世 71~131..
「宇豆比古様」は第八代孝元天皇(紀元前214~156)の皇子でその妹、紀伊国名草郡宇治郷に影媛様がいました。 やまとたけるの命の命により紀伊国へ屋主忍男武雄心命が来て(景行天皇の御世 71~131)影媛を娶り「武内宿禰」を生む(『一代要記』)とある。 紀伊国名草郡宇治郷の氏神様として天照大御神様がおまつりされていたと考えられる。 鳥羽天皇(1107~1122)が上皇となり1124年に崇徳天皇に譲りしころ長承4(1135)年5月4日鳥羽上皇の勅願所として葛木山麓に丹生都比売様・高野御子様を勧請、康始元(1142)年に岩手村吉野川北岸に創建、重ねて宇治のこの地に勧請建立された。 第一金剛部・第二仏部・第三蓮華部の三部の神を建て、本地垂迹縁起の神として、三部大明神三座と称された。 鳥羽上皇様は御敬神厚く藤原内大臣實季公をたてて奉幣があり、その後、根来寺創建落慶時に土師の直営、また豊幣により「若干の荘園を以って神供燈油料に当てられ方八丁を余地とし「ひもろぎ」を回らし神殿厳かにして宇治一円を以って産土神となし給い神輿三基頓宮に渡御あり」と伝う。 また 崇徳天皇の御宇に中臣の春足公は三部大明神を御崇敬厚く遙かに都を立ち、当宇治神社に奉幣なされ、懇願し給われご満足なさり「それ神は人の敬に依って威を増し 人は神の加護に依る」と言い残されている。 その後、乱世となり神祭りを怠り社頭傾き災難に遭い、古の麗き面影をなくした〔保元の乱〕 慶長年間(桃山・江戸初期)浅野幸長公(1596~1614)が入国され先帝の御由緒を知り 尋常ならざる御事として旧地を移転して社地を賜い境内凡そ500余坪の免除殺生禁断の制令別当の社格を旧例に復し両宇治及び本町第一街・嘉家作丁に至り、方八丁の地を氏子に属せしめられた。 元和年間(1615~1623)に徳川頼宣公が入国なされた後頼宣公にとっても御崇敬厚く、鎮守の神として崇められていた。 昭和6年7月境内のクスノキ(400余年余り経つと推定されていた)が天然記念物に指定されたが、その後第二次世界大戦により戦火にみまわれ、古のおもかげは失われてしまい今日にいたっている。 現存する本殿は、徳川侯の寄進による江戸時代未期の本格神社建築であり、戦災により周囲の景観もろとも破壊された中で唯一残る当時の社格を伝える重要な建築である。 明治時代 各地域にお祭りされていた社で宇治神杜に合祀されている神社として 楠本稲荷神社・金比羅神社・八坂神社・愛宕神社・荒神神社・天満神社・牛神神社の八神が御鎮座なされていたが現在では、楠本稲荷神社と平成20年2月に復興された足神神社のみが境内におまつりされている。(和歌山県神社庁HP)