ふじあさまぐう
栃木県佐野市田沼町776-7
冨士浅間宮
祭神 木花開耶姫神(冨士浅間大神) 鎮座 安政四年七月二十一日 例祭 六月一日
富士山は、人皇六代孝安天皇九十二庚申年の初め頃より天地が唸り揺れ、 暴風吹き荒れ暗夜..
富士山は、人皇六代孝安天皇九十二庚申年の初め頃より天地が唸り揺れ、 暴風吹き荒れ暗夜の如きという中、六月朔日に近江の湖が一夜に裂けると同 時に出現し、孝霊天皇の時に雲霧が晴れて其の容姿を見せたと伝わる。 垂仁天皇の時、冨士火山鎮護に木花開耶姫神を祀る勅命あり。 十二代、景行天皇四十年に日本武尊、富士の神霊を遥拝した冨士山麓の大 塚丘に浅間大神を祀る。 天応元年、富士山噴火。甲斐国主、紀豊庭朝臣の卜占により浅間大神を遷し、 延暦七年に北方の現在地(山梨県富士吉田市上吉田五五五八番地北口本宮冨士浅間神社鎮座地)に社殿を造営し遷し祀る。 天正五年、冨士講髙祖角行藤仏、冨士登山。享保十八年、元祖食行身禄、冨士山七合目烏帽子岩で入定。 元文三年、冨士御師の田辺十郎右衛門(御法会信心教導師、初代給仕の北行 鏡月真)、身禄入定の次第の巻物「御開奥巻」(一般に三十日の巻)を完成させる。 安政三年、当宮の初代大澤武右衛門、五世給仕の田辺近江守源宜より富士先達を許される。 当神社は、万民救済と冨士登拝成就と冨士講身禄派教義の発展の為に、田沼町上西の神明宮境内に浅間塚を築き、その前に社殿を造立、大澤武右衛門、津布久八良左衛門、大森利兵衛、川田助七、相田五左衛門、大串石藏等、近隣の先達発起人となり北口本宮冨士浅間神社宮司の田辺近江守源宜祭主し、講中と田沼上西によって祀られる。 安政六年、大先達渡辺源行等、近江守敬書の号額奉納。萬延元年、御縁年に初めて女人も登拝が認められる。女人連、御鏡奉納。 文久元年、神祇官より殿号額を賜り、北口本宮の「松森殿」講社と称する。 慶応二年、三世大先達の大澤万行(陰陽師、万次郎)、冨士山御祈棧神大皇の石山啓信行有房(扶桑太教庁大社長)から「御開奥巻」を相伝される。 明治十五年、宍野半冨士講先導者等を統一して神道扶桑教を組織、初代の管長になる。万行従属され、明治二十八年、佐野市田島町出生の宍野健丸 (旧姓小暮) 第二世管長認命奉祝祭に出席し、昇級する。 大正五年、社殿を現在地に移築。昭和四十六年、社殿修繕 昭和五十一年、六世宮司大澤作造、役員合議の上、宗教法人にする。 社務所を新築。昭和五十五年、浅間塚上の石祠破損の為、木造で新築、 奥宮遷座祭して、冨士御師の大幣司、田辺太郎家の家宝「冨士山御影」を納める。役員等と冨士登拝し、烏帽子岩で食行祭する。 昭和六十三年、社殿取り壊して地続き西側に新築。社務所移設し、昭和天皇御在位六十年紀念の大事業成る。 平成二十三年から鎮座時を模索して進めてきた「冨士塚」の築造を成し、境内に昔から祀られてきた諸社、石碑等を遷し祀り、整地整備して今に至る。
木花咲耶姫命
安政四年
■東武佐野線 田沼駅 から徒歩12分(988m) 最寄のバス停・路線 □万葉浪漫バスさーのって号 基幹線 □万葉浪漫バスさーのって号 野上線 □万葉浪漫バスさーのって号 飛駒線 田沼庁舎入口南バス停 から徒歩2分(152m)
有り
有り(社務所内)