ほんぶつじ
福岡県うきは市浮羽町流川1292
明治十二年、日薩和上から任を承けた中洲日振上人(中教院教師)が当地に入る。上人は日蓮系皆無なこの地で、講義と法華経布教を始動、現在の大本堂建築に挑む。もとより目的は「衆生救済」であり、混乱した時勢で..
明治十二年、日薩和上から任を承けた中洲日振上人(中教院教師)が当地に入る。上人は日蓮系皆無なこの地で、講義と法華経布教を始動、現在の大本堂建築に挑む。もとより目的は「衆生救済」であり、混乱した時勢での苦しみ病む人々への依拠の開発である。されど使命は、「九州に於ける法華信仰の中心的霊場創設」であるため常に追われる日常であったと推察出来る。しかしながら人格・教養・信心何れにも秀でた上人への帰依者は後を絶たず、次第に信徒は増し、僅か一年で五十軒を越える檀徒が結していく。そんな中、宗祖入滅六百年を期し、御真骨(日蓮聖人のお骨)は身延山(山梨)を大行列で出発し九州へ上陸。上人はいよいよ心中と課せられた重大な任務を信徒に明かし、本殿(大本堂)建設に入る。今にしても本殿は大伽藍。信徒等をしての苦心惨憺の末が偲ばれる。四年の歳月を得ての明治十七年三月当山は開堂した。(本佛寺HPより引用)
鎮西身延山
日蓮宗
1884年(明治17年)3月
朝倉ICより車で約10分
無料
有り
あり