しょういんじ
神奈川県横浜市鶴見区東寺尾1-18-2
松蔭寺は、仙鶴山と號し、鶴見區東寺尾町百二十番地に在る。境内は一千八坪。官地有。鎌倉建長寺の末、寺格は一等地・小机三十三所觀音靈場の第十一番の札所である。 沿革 草創の年代は詳かでないが、寺傳に..
松蔭寺は、仙鶴山と號し、鶴見區東寺尾町百二十番地に在る。境内は一千八坪。官地有。鎌倉建長寺の末、寺格は一等地・小机三十三所觀音靈場の第十一番の札所である。 沿革 草創の年代は詳かでないが、寺傳に據れば、當寺は、鎌倉建長寺第三世勅諡佛壽樞翁妙環禪師が創始した所と云ふ。旣ち禪師は、初め後嵯峨帝皇子、高峰顯日佛國々師に依師して、其法を嗣ぎ、後、建仁寺に出世し、尋いで鎌倉圓覺寺・建長寺等に歷住され、隱退の後は幽棲の地として當山に入り、草庵を結んで正統庵と名付け、此所に棲居したのが當寺の前身であると言はれる。爾後、堂塔伽藍備はり、仙鶴山松音寺と稱して其後の武相に於ける有數の巨刹と為つたと云ひ傳はり、いつの頃か、寺號も松蔭と改まつて、今に至つたが、口碑に據れば、後に數度の囘祿にも罹り、什寶・舊記等の悉くも烏有に歸した為め、沿革等も全く其詳細を缺くに至つた。古來の堂宇は、今の境地に近い處に在つたが、囘祿數度の後に、山下より現地に移して再建したもので、今尙、舊地を元屋敷と稱して居ると云ふ。第二世の芳林和尙が中興以來は、年代不詳。法燈が連綿として、二十七世を歷て今に及び、其間の第十三世廣山和尙、第十九世天巖和尙、年代不詳。が各、中興したが、今の堂宇は延寶の頃、第十三世の廣山和尙が再建した所である。德川氏に至つて、境内、三段八畝七步、山林、三町三段一畝三步の地を各、除地とせられて居た。然るに、大正十二年九月一日の關東大震災に、堂宇は大破したので、現住の川上誠宗が修復を加へ、更に今は新たに復興の企劃中である。 本尊 本尊は釋迦牟尼如來の木立像、長一尺二寸、祕佛。作は不詳である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
仙鶴山
臨済宗建長寺派
建武元年(1334)
釋迦牟尼如來
旧小机領三十三所子歳観音霊場11番 鶴見七福神 布袋尊
無し
有り