つるみねはちまんぐう
神奈川県茅ヶ崎市浜之郷462
長元3年(1030年)9月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠とする源頼信の子源頼義が下総の乱鎮定の折り、京都にある石清水八幡宮を懐島八幡宮として勧請した(宇佐神宮を勧請したとも)のが始まりであるという..
長元3年(1030年)9月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠とする源頼信の子源頼義が下総の乱鎮定の折り、京都にある石清水八幡宮を懐島八幡宮として勧請した(宇佐神宮を勧請したとも)のが始まりであるという。後に源氏が現在の場所に分祀した。 天喜3年後(1055年)の前九年の役の際に源頼義が祈願したに勝利を収めると、康平6年(1063年)、戦勝に報いるため懐島八幡宮を鎌倉由比郷に鶴岡八幡宮の前身である元八幡を建立したという。その後、応徳2年(1085年)、源頼義の嫡男である八幡太郎義家が領地を寄進し、懐島郷の隣の浜之郷に鶴嶺八幡宮を創建した。この時期に元八幡の旧社であることから懐島八幡宮は本社宮と改称したという。 将軍源頼朝が治承年間に領地を寄進し、また建久年間にも頼朝は肥後国有為庄に鶴嶺八幡宮に700貫を寄進し、懐島権守平景能に修復を命じた。 建久2年(1191年)、大庭御厨の領主大庭景義が大仏殿や三重塔等を建て、鶴嶺八幡宮を再興した。同年、西隣りに伊予の三島の神を祀る佐塚明神社が建立される。 古くは別当寺の常光院に十二坊の宿坊が存在したが、各地に散らばった後に廃止となる。江戸時代の正保年間、常光院住職の朝恵が地頭・山岡景信と相計りで荒れ果てた社殿を修復した。またこのとき参道を整備したという。 慶安2年(1649年):3代将軍徳川家光が本村に7石の朱印地を与えた。江戸幕府崩壊後、明治時代になると神仏分離令により常光院が復飾し、祠掌となる。
その後、西側に隣接した佐塚大明神を合祀し、佐塚大明神の祭礼の浜降祭を主宰するようになった
應神天皇、仁徳天皇、佐塚大神 菅原道真公(鶴嶺天満宮合祀)
旧郷社
1030年(長元3年)
JR東海道本線茅ヶ崎駅北口からバス乗車、「鶴嶺小学校前」下車、徒歩1分。
無料
約20分
有り