じょうしょうじ
神奈川県横浜市南区南太田1-24-41
当山は、山号を「西中山」寺号を「常照寺」といい、通称「太田(あるいは南太田)の鬼子母神」として有名である。 草創は、明治6年…千葉 市川 大本山 正中山 法華経寺第112世 河田日因貫首(本良院..
当山は、山号を「西中山」寺号を「常照寺」といい、通称「太田(あるいは南太田)の鬼子母神」として有名である。 草創は、明治6年…千葉 市川 大本山 正中山 法華経寺第112世 河田日因貫首(本良院日因上人)は、文明開化の槌音高き横浜に、布教拠点を設立せんと欲し「横浜 西太田(現 南太田)説教所」を建立することに始まる。…(初め『鬼子母神八日講』と称し、後『横浜西太田説教所』の名称となる)。 明治8年、河田貫首は、喜多村日修(慈教院日修)上人を、その担当に任ず。上人32歳の砌である。 喜多村上人、勇猛精進の布教伝道の成果は、明治12年「横浜西太田説教所」を「西中山常照寺」とし、遂に寺号公称の結実を見、初代住職に就任する。上人を当山の開山とする由縁である。 明治13年、喜多村上人は中山遠寿院に入寺。常照寺と兼務をする。 のち、上人は明治32年 京都洛東本山頂妙寺に入山。そして明治44年、千葉中山大本山法華経寺に入山 第118世 貫首となる。 さらに大正5年、第21代日蓮宗管長となる。 明治19年、常称寺第二世として、今井日誘(寛心院日誘)上人を住職とする。のち、上人は千葉 小湊大本山誕生寺に入山され、貫首となる。 明治44年、常照寺第三世服部存忠(温厚院日義)上人、法灯継承。 大正13年、常照寺第四世植木泰運(妙音院日研)上人、法灯継承。(当山中興) 日研上人は日蓮宗大荒行五行成満の大験者、その修法布教の成果は多数の信徒が檀家となられ、現在の常称寺の礎を築かれた法功は多大であり、当山中興と称される由縁である。 昭和28年、常照寺第五世伊東泰岳(一妙院日健)上人 法灯継承 昭和56年、常照寺第六世伊東隆司(泰導院日隆)法灯継承 現在に到る。 扨、常照寺法灯高揚の由縁は、先師の丹精も然ることながら、当山に祭祀せられたる「鬼子母大尊神」の霊験に与かる事、大である。 抑、当山に奉安の「鬼子母大尊神」は、八代将軍・徳川吉宗公の頃より、江戸城大奥に、子孫繁栄の守護神として祭祀せられ、のち「大政奉還」の折に、徳川家信仰の「秋葉大権現」「若宮八幡」そして「吉宗公」の各尊像と共に、下総中山 大本山 法華経寺へ納められたるもので、明治8年・・・日因上人より日修上人が、その・・・各尊像を「徳川家永代供養の過去帳」と共に拝受し「横浜西太田説教所」へ安置されたものである。各尊像を納めた厨子には、そえぞれ「三葉葵」の紋が施され、これが・・・当山の「寺紋」「三葉葵」となった由来である。 「鬼子母大尊神」の霊験著書の様は、草創の時より、昭和期に至るまで、目覚ましいものがあり、近郊近隣の他宗門の檀徒が、多数改宗し、当山の檀信徒となり、現在の常照寺の礎を築いたることをみても明らかである。
常照寺は、中山法華経寺の慈教院日修上人が開基となり、明治元年(1868年)に説教所として創建、明治12年に常照寺と号したといわれています。 なお、常照寺所蔵の鬼子母神像は、江戸時代、大奥に祀られていたそうです。
西中山
日蓮宗
明治6年
喜多村日修 (慈教院日修) 上人
西中山 常照寺
太田の鬼子母神 南太田の鬼子母神