本社は天慶年間(936)の創建にして、富田の地が、宇佐神宮領富田荘として開拓された際、宇佐神宮の分霊を奉祀したのに始まる。年代は不明だが湍津姫を合祀している。
また当時の地方開拓に偉業ありし祖神を、奉祀したとも伝える。保元年間(1157)鎮西八郎源為朝当地に来たり、社の東方一粁、字鬼付女の、観音山に城砦を築き占居の際、本社を厚く崇敬し、大なる鉄鏃甲袖を神宝として寄進した。その後、為朝公の霊を合祀したとい伝う。寄進した鉄鏃甲袖は明治初年廃藩に際し紛失した。
社蔵の旧記宝物類は、元亀天正年間(1571)屢々兵乱あり、為に悉く焼却せられ、現在は佐土原島津藩領になってからの慶長十三年(1608)再興の棟札其他数枚蔵せるにより、創建の由来遠きを窺うに足る。
本殿のすぐ後に、周囲70メートル、高さ2.5メートルの円形式古墳があり、濠面に古樹森鬱としている。境内であるため完全に保存され、富田古墳第一号に指定されている。
旧佐土原藩主厚く尊崇し、社領高十石寄進せられ、社殿の営造並びに例祭には代参ありし社であった。
以前は当神社を富田八幡宮、八幡宮、為朝八幡宮とも言っていたが、明治維新の際、富田郷を分ち、上富田、下富田の二大字となったので、社名を上富田神社と称することになった。
其後社名変更の必要を認め、大正十三年四月七日(1922)付許可を得「富田八幡神社」と改称した。