894年の遣唐使の廃止後、基肄城(きいじょう)は軍事的な城としての機能を離れて、仏教の修行道場となる。基山南麓の瀧場には宝篋印塔(ほうきょういんとう)・60基の五輪塔・板碑が現存する。
建永元年 (1206年)当時は、中山の地(本福寺の位置する場所)は、天満宮安楽寺に寄進された荘園であった。これは安楽寺新三重塔経営の用にあてるためであった。『天満宮安楽寺草創日記』(太宰府天満宮文書)に、
建永元年五月、寄進青木圧荒野、
三笠西郷兵馬田并寺辺基肄中山
とみえる。
宝永6年 (1706年)に記された貝原益軒の『筑前国続風土記』には、城山千坊・城山四王院とある。山麓の不動寺・寺谷・仁蓮寺・天台寺などの寺名のつく集落や、仏谷・道場原などの地名は、その遺称であると伝えられている。
また、『荒穂神社縁起』によれば、永正年中(1504年 - 1520年)以前に荒穂神社は中山の頂上から麓に遷座したとあり、本福寺はその跡地に位置する。
1940年4月28日、中山一之瀧霊場に、四国八十八箇所より勧請の札所が開設される。 1947年1月5日に開祖の覚恵が中山一之瀧千坊で没すると、2代目管長の覚法は真宗の末寺となり光明寺と寺号を改めた。
1950年3月、大師堂が建立される 。
1974年、総本堂が完成し、開眼供養を実施した。
1975年、真言宗泉涌寺派から独立し、光明念佛身語聖宗が設立される。
1976年4月、宗務所が完成(九州建設賞受賞)。
1982年4月、光明院(勧学院・水子堂・護摩堂)が完成。
1989年3月中山一之瀧千坊奥之院御廟が再建立される。善法堂並びに、本尊不動明王大仏(総高さ4.8m)が安置された。
1994年11月3日、五重塔(33.6m)が完成し、落慶法要を実施。
2001年、西国三十三箇所が伽藍内に建立される。
2011年に百年堂と称する千手観音を本尊とする仏堂が建立され、既存の西国三十三箇所と合わせて、坂東三十三箇所・秩父三十四箇所が配置され、百観音霊場となる。