日本武尊熊襲を征討の為、西下されたとき、幣田川(現平田川)河口の伊倉浜から船で遡り、川岸にある歳の森に船を寄せられ、現社地の東南の高台の地(今も城跡の壕跡存す)に宮居を定められた。暫くこの地に留まられ、熊襲征討の後再び立ち寄られ都へ還られたという。後に人徳天皇の御宇、尊の徳を慕い宮居に向かって社を建て、尊を祭神として創祀したと伝えられている。
以前は由緒記、古文書等があったが、天正年間大友宗麟が此の地に乱入した際、兵火に罹り焼失したという。棟札に、「奉再興平田大明神一宇、文禄三年甲午(一五四九)十一月二十五日再興」とある。足利義政公の時代、伊東氏より神領三百石を寄進された。現在でも祭田と称する地名の田地が残っている。又高鍋藩主秋月公より、神領三石、社殿の修理、其地祭器具類一切の御寄進があり、歴代秋月公の崇敬篤い社で、元文五年(1738)にも社殿が造営されたことが棟札から知られる。
明治四年郷社に列せられ、武神、厄除けの神として厚く崇敬されている。旧暦十二月二には県無形民俗文化財高鍋神楽の奉納がある。また、平安期の作といわれる木造の女神像を有する。