ひばやまくまのじんじゃ
広島県庄原市西城町熊野1160
当社創建不詳なれども和銅六年(713年)までは比婆大神社と称されていたと伝える。天平元年に社殿を造立、その後嘉祥元年社号を改め熊野神社と称し、更に遥に星霜を経て文亀二年奴可郡西条保久里村の源親盛が大..
当社創建不詳なれども和銅六年(713年)までは比婆大神社と称されていたと伝える。天平元年に社殿を造立、その後嘉祥元年社号を改め熊野神社と称し、更に遥に星霜を経て文亀二年奴可郡西条保久里村の源親盛が大檀那として本殿を造営、永正十五年源尚盛が大檀那として本殿を造営、天正四年源朝臣智盛が大檀那として社殿再建をなし、同弟伯州日野郡山城主源景行が材木等を寄付しており、文亀二年、永正十五年、天正四年の棟札が現存する。 宮氏は当神社を崇敬し祭祀を行っていたが、福島正則が領主となって造営料の奉献が絶え、それより後は信者により社殿造営が行われた。なお、当社は伊邪那美神の御陵比婆山に因むお社にして、明治以降も比婆山考証に当たる多くの学者により論究されている。また、当社の社叢は百本以上の巨杉で構成され、胸高周囲四米以上のものが五十五本、樹齢千年をゆうに超えると思われるものもあり、全国有数の偉観を呈している。明治以前は本社を熊野権現、摂社二ノ宮を新宮権現、三ノ宮を飛瀧権現と称した。
伊邪那美命を祭神とする。伊邪那美命の墓とされる「比婆山御陵」を拝む場所として信仰を集めた。熊野神社の創建は不詳だが、和銅六年(713)までには存在し、「比婆大神社」と称したという。天平元年(729)に社殿を再建し、嘉祥元年(848)に「熊野神社」へ改称したと伝わる。
明治期に入り官幣大社に昇格運動起こり内務省に請願。大正十三年第四十六回帝国議会において「比婆山熊野神社昇格に関する建議案」採択。昭和十四年第七十四回帝国議会において「備後比婆山に伊邪那美神を奉祀する官幣大社建立に関する請願書」採択。やがて時局大変転して今に至る。
比婆山の御陵の遥拝所として知られる。 境内の杉の老木群は、樹齢1000年といわれるものも含まれ、広島県天然記念物に指定されている。
伊邪那美神、(相殿神)伊邪那岐神、天照皇大神、大国主神、須佐之男神
村社
おくまのさん 比婆山大神社
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