こうみょうじ
埼玉県秩父市山田2191
光明寺の発祥は、桓武平氏の始祖となった高望王の弟君である恒望王が大同二年(八〇七年)当地で逝去した邸跡に、王の冥福を祈った祈願所の光明庵から始まり、もとは西新木向殿(恒持神社の南側)にあった。 は..
光明寺の発祥は、桓武平氏の始祖となった高望王の弟君である恒望王が大同二年(八〇七年)当地で逝去した邸跡に、王の冥福を祈った祈願所の光明庵から始まり、もとは西新木向殿(恒持神社の南側)にあった。 はじめ真言系の寺であったが、武蔵七党の一つ、丹党の関口丹後守が文保二年(一三一八年)に鎌倉建長寺より法性国師物外を迎えて、寺を整備して光明寺と改称した。その後、南北両上杉の抗争に巻き込まれ秩父谷が疲弊したため光明寺も衰微した。 秩父丹党の加治新五郎は、永正一四年(一五一七年)鎌倉建長寺五世春澤香梅を迎えて中興し、天文元年(一五三二年)寺域を現在地に移し、併せて丹党氏神である丹生明神社を寺の西側へ遷した。 その後、小田原北条、甲斐武田、越後上杉の抗争で、また、秩父谷が衰微し、光明寺も衰弱したので、天正一五年(一五八七年)三月三日郷党は、地元新木番匠屋荒船家の次男で越生竜が谷の龍穏寺一五世住職となった朝谷是暾禅師を迎えて伝法開山とした。これより光明寺は、曹洞宗に改められ連錦として現在に至っている。 光明寺は、秩父谷随一の格式を持った寺で、末寺に真福寺(札所二番)、常泉寺(札所三番)、金昌寺(札所四番)、福蔵寺、秀林寺の五寺があった。 寺は、南面して武甲山と相対しているので、山号を向嶽山と呼んでいる。 <昭和五十六年三月 秩父市>
光明寺は、秩父谷随一の格式を持った寺で、末寺に真福寺(札所二番)、常泉寺(札所三番)、金昌寺(札所四番)、福蔵寺、秀林寺の五寺があった。 寺は、南面して武甲山と相対しているので、山号を向嶽山と呼んでいる。
向嶽山
曹洞宗
秩父三十四ヵ所霊場 第二番納経所
有り